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マスターがお店を始めたきっかけ

今まで、マスターはこの件については、語る事はありませんでした。

過去を振り返っても、仕方がない事だし、前を向いて進みだしたことだから、多くを語る必要はないと考えていました。

でも、当初お店を始めようと思ったきっかけは、一言で片づけられるものでは、ありませんでした。

お店のコンセプトを打ち出し、それを形にした店でしたが、結局、マスターが思い描いていた店とは、かけ離れてしまいました。

それは、それで仕方がないという気持ちと、消化不良という想いと、今更という、自分の中でもやもやが解消されず。今日に至ってしまいました。

しかし、もう8年も前の事になりますし、生活スタイルも当時と変わっているので、当時の事を語るというのも、どうかと思うのですが、お店のコンセプトは、この想いからきているので、知ってもらわずに終わるのも、寂しいかな?

でも、それって、自分の中でしか分からない事で、それを伝えて来たか?というと、足りなかったかもしれません。

でも、最初は、ど素人だったので、そんな余裕がなかったのも事実です。

ママと一緒にお店を始めましたが、ママにはママの想いもあったと思います。

二人の想いが、根っこの部分で違っていたのは、否定できません。

なので、まずは想いを伝えてみようかと思うようになりました。

でも、そんな大それたものではないので、期待せず、お時間がある時に読んで頂けると嬉しいです。

かなりの長編になってしまいましたw

サラリーマン時代

夢とか希望とかを持って、社会人になった訳ではありませんでした。

勉強も出来た訳でもないし、大学も受験した学部もバラバラで、結局、ギリギリ合格した大学に行き卒業まで漕ぎつけたって感じ。

就職も、卒業した大学の学部とは殆ど関係のない会社に就職した。

たまたま実家の近くに、新しく工場が出来たので、その会社の就職試験を受けたら受かってしまったという、感じです。

しかし、実家の近くにできたから受けた会社だったのに、勤め先は本社で、横浜になってしまった。

就職するにあたって、志望動機を書かなければならなく、会社のパンフレットを見ながら、自分に何が出来るんだろうと思いながら、考えに考え抜いて決めたのが、これです。

道路上にLEDの電光掲示板を見たことがあると思いますが、その「電光掲示板に表示するものに携わりたい。」

自分自身でやってみたいと具体的にいったのは、これが初めてかも知れません。

配属先は、希望の電光掲示板に携わる部署でした。希望は、叶ったって感じですかね。

単なる見た目だけで希望したものですが、実際にその電光掲示板に携わって、多方面の勉強をする事ができ、探求心が芽生えるようになりました。

各々の専門分野の方から学び、その各々の分野を取りまとめるのが、私達の業務でした。

営業、客先、工場内の設計技術、品証部、物流、現地設置、現地調整、障害対応など、最初の仕様決めから設置運用まで関わる業務だったので、逃げ道が無く責任感が増しました。

結局自分がやっている事って、物事を進めるための潤滑油的な役割だったので、相手の顔色を見ながら、お願いをしてやってもらう、そんな感じでした。なので、ストレスはマックス、自分が作った仕事でもないのに、なんで自分が頭を下げてお願いしなければいけないんだというネガティブな心理状態になっていってしまいました。

お願いするなら、自分でやるよ!

その想いが、独学への道を切り開きました。

唯一自分が出来そうだったのが、ソフトウェアの分野。

他部署に委託していたのを自部署で引き取り、自ら首を絞めていきました。

とことん自分を追い込み、その成果が部長に伝わり、ソフトウェア開発部署に異動となりました。

しかし、今まで常に電話で仕事をしていたのが、部署が異動になったとたん、電話が鳴る事が皆無となりました。

ソフトウェアに関する仕事は、基本実務は黙々と作る事。

設計書、プログラミング、テスト、取扱説明書など、常にパソコン画面に向かう毎日。

そんな、サラリーマン生活を送っていました。

長年勤めた会社を退職した経緯

1.職歴

直近は、結婚相談所で営業の仕事に挑戦しましたが、半年しか在籍していなかったので、職歴としては、残さなくてもいいかなぁと思いましたが、ママとはこの会社で出逢ったので、補足で記しておきます。

前職は、実家に戻って来てから、ソフトウェア受託開発の会社に契約社員として就職しましたが、仕事内容も変わり、直接仕事をする際の上司はかなりの年下だし、慣れない環境、出向先での勤務、オーバーワークのため、精神的にまいってしまって、当初契約時に担当になっていたプロジェクトを終えて退職する事にしました。

 

2.終身雇用

私が入社した頃は、まだ終身雇用が当たり前の時代だったから、上司には逆らえず我慢して言うことを聞くというのが、当たり前の時代でした。

若い頃は、自分もあの年齢になれば、給料もボーナスもそれなりに貰えて、管理職に昇進すれば海外旅行の特典も、そして退職金も貰って、優雅な年金生活を送るんだろうなと、疑っていませんでした。

だから、若い頃は我慢できていたのだと、思います。

残業当たり前、休日出勤当たり前、仕事の持ち帰り当たり前、働き方改革って何?という過重労働。

そして、そんな終身雇用は、突然変わっていきました。

3.まさかのとばっちり

知らないうちに、徐々に年功序列が変わって行き、グループの編成が変わったら、なぜか年下が上司に。

気持ちの整理もつかない時期を迎えたと思っていたら、今度は、内部告発の騒ぎ。

昨今ニュースになっている、トヨタ関連会社の検査データの改ざんと同じように、業種は異なりますが、検査データーの改ざんを国土交通省に告発されたみたいです。

自身の事業部には関係ない部署の不祥事が、とばっちりを受ける事に。

人員が、問題の事業部に持って行かれたり、自身もその対応に時間を取られる始末。

管理職になったら、給料もボーナスもそれ相応貰えると思っていたのが、夢物語に…

ボーナスなんてでやしない、管理職だから残業手当もでやしない、 毎日退社時間が午前1時過ぎ。

仕事の拘束時間に見合わない給料。

4.まさかの退職

とうとう早期希望退職の募集が出て、悩んだあげく退職する事に。

引き止めも無く、退職のお祝いどころか裏切り者みたいな、感覚を受け退職。

忘れもしない退職の日、引き継ぎの資料作成を終え誰も居ない会社を出たのが、午前0時。

他の退職者は、有給消化で何週間も休んでいる人もいたのに、休みも取れず、最後の最後まで一人居残って、資料を完成させていた。

5.先の見えない不安

マスターは、石橋を叩いて渡るような性格で、何事も事前に調査したり、ある程度不安要素を払拭してから行動するタイプでした。

なので、全く想像もできない状況は、不安で一杯。

ただ逃げたい。

45歳で退職、次の就職先も決まっていない。

マンションを売却して、実家に戻るという事だけを決めていた。

マンションも売れるのか?自分の城が無くなる寂しさ。四半世紀ぶりの母親との共同生活。

実家に帰っても、友人もいないし、相談相手もいない。一人で何が出来るのか?就職できるのか?

不安だけしかなかったです。

就活中に思った事

6.自分は本当は何をしたい?

実家に引っ越した後、就職活動をしていく中で、自分は何に向いているかというのを占いで見る事はありましたが、自分が本当は何をやってみたいのか?

そんなWorkをやってみました。

自分が好きな事、欲しい物を書き出してみる。そしてそれは、なんで好きなのか?なんで欲しいのか?というのも書き出してみる。

実際には無理と感じているものも書き出してみるのが重要。

近い物はグループに区分けしてみる。

そして、それらのワードから文章にしてみる。

自分が書き出した文章は、この後、紹介します。

自分探しをしてみた

孤独を救ってくれたのは

7.ソフトウェア開発時代

当時担当していたのが、お客さんが運用で操作するアプリケーションの開発でした。

チームで開発というより、物件ごと担当が決まっているので、基本一人で開発をしていました。

なので、仕事中は、黙々とパソコンと向き合う生活を続けていました。

 

 

8.孤独との戦い

会議とか打合せの間は、パソコンは見なかったですが、実務中は、ずっとパソコンと睨めっこです。

毎日何時間もパソコン相手に、黙々と喋る事もなく、眼と脳と指を循環させているイメージです。

脳で処理して指でキーボードをたたいて、その結果を目で見て、脳で処理をするという、ロボットみたいなものです。

それを永遠と一人でやっているって事です。

この場合、耳って空いているんですよね。

そこに感情を湧きたててくれたのが、音楽なんですね。

9.プログラミングと音楽

プログラミングって、方向性が決まれば、力業。ひたすらコードを書き進めるだけなんです。

なので、ノリのいい曲を聴くとテンションも上がり、一気に書き進める事が出来ます。

さすがに、会社で定時間内では出来ない事なので、人が減った残業時間、休日出勤、自宅での作業時に、やっていましたね。

 

10.移動中と音楽

ひとりで出張も多かったので、仕事を終えた帰路の電車の中って、心にゆとりも出来ていました。

そんな時、その時の精神状態に合わせて、聞く音楽のジャンルも変えていましたね。

車窓から見える景色をみながら、曲の歌詞が今の心境にあった曲だと、涙腺が緩んできました。

11.ウォーキングと音楽

残業を終え帰宅し、夕飯をとった後は、もう真夜中。

仕事中は座りっぱなしだったので、なるべく歩くようにしていました。

隣の駅までが、いつものウォーキングコース。歩道も広く、緑も多かったので、好きなコースでした。

真夜中で、人も歩いていないので、音楽を聴きながら、景色や夜空を見上げながら、ウォーキング。

無心で歩く事は無く、その時々の心境で色んな事を思いながら歩いていました。

その時も、曲の歌詞が心境とシンクロした時に、また涙腺が緩んできました。

感情も高まり涙を流す事で、心の浄化が出来ていた気がします。

ひとりだったけど、どうにか自分をコントロールしながら、壊れずに頑張ってこれたと思います。

音楽に助けられていました。

癒しを欲していた

12.サックスとの出会い

まだ、システムエンジニアだった頃、頸椎ヘルニアの治療のため、長期入院治療をした時期がありました。

デジタルの世界に自分を追い込みし過ぎて、疲れてしまっていた時の入院だったので、その間パソコンから離れていました。

その時、色んなジャンルの音楽を聴いていた中で、サックスの音色に魅了されてしまいました。

退院後は、会社も無理するなと残業も無く帰宅していた期間もありました。

その時は、身体も調子よくなり、心にゆとりもあったので、サックスに興味を持ち始め、ふと、横浜の楽器店に入り、はじめてサックスに触れました。

13.BARデビュー

横浜の楽器店で、ソプラノサックスを衝動買いしてしまいました。その後、独学では無理と考え、その楽器店の音楽教室に週一通う事になりました。

レッスンは、マンツーマン、レッスン時間は限られていたんだけど、半分以上は、雑談だったw。

会社の人以外で話をすることは、滅多になかったので、この雑談が心のオアシスでした。

その講師はお酒が好きで、お酒の話、ライブの話などが雑談内容でした。

その方の影響で、バーボンに興味を持つようになり、そこから、サックス、JAZZ、お酒、BARという世界観に憧れるようになっていきました。

飲み会といえば、チェーン店の居酒屋が主流だったので、BARは敷居が高かったですね。

一人では、行きにくかったので、自分を慕ってくれていた後輩と一緒に、横浜のBARデビューを果たしました。

バーボンの勉強をして、銘柄などを調べるようになり、ロックグラスの丸い氷を転がしながら、バーボンを飲むというスタイルが好きになり、丸い氷で提供してくれる店を探すためにBARを巡るようになりました。

その過程で、生ピアノ演奏のある店に出会うと、また、興味をそそられ、お酒と音楽が楽しめる空間に憧れるようになりました。

14.行きつけの店

BARを巡っていくうちに、カクテルにも興味がわき、「モスコミュール」が好きになりました。

BARに行くと、モスコミュールを頼むようになりました。

モスコミュールも店により、違ったので、自分なりにお店の判断基準にしていました。

BARを巡っていくなかで、会社の人間には知られない、自分だけの癒しとなる空間が持てたらいいなと思うようになりました。

初めていくお店は、店の雰囲気、店主、居心地、自分との相性など、何も分からないので緊張してしまいます。

でも、初めて行った店でも、落ち着く、居心地がいいと感じる店もあり、そういう店は、何度か利用するようになりました。

でもスパンが長かったので、店主との距離は、縮まりませんでした。というか、人見知りなので、お店の人と話をするというのは、ハードルが高かったかもしれません。

でも、自分が落ち着いて、自然体でお店の方ともコミュニケーションがとれて、「いつもの」と言える、行きつけのお店があったら、もっと自分が好きでいられたかもしれませんね。

15.自分だけのプライベート空間

BARは、お金も掛かかり頻繁にいけないので、雰囲気だけでも自宅で楽しみたいと思うようになりました。

狭いアパート暮らしから、マンションを購入した頃だったので、照明も洒落た雰囲気を演出できるようにしました。

酒屋でバーボンをチョイスし、自宅で飲むようになりました。

飲み始めると、他の銘柄も飲んでみたいという衝動にかられ、いくつか揃えるようになりました。

照明を落とし、BGMに音楽を流し、好きなバーボンをロックで楽しむ、そんな完全プライベートな空間を演出し、「K’s Bar」と名付けていました。

16.趣味の世界に

「K’s Bar」を演出するために、お酒類、シェーカー、グラス類を揃えていきました。

室内には、間接照明、カウンターテーブルには、ブラックライト。

とりあえず、形から入る性格なので、揃えられるものを買いそろえていきました。

Barに行かなくても、自宅で癒しの空間を作って、ストレス解消に役立てられたかな?

しかし、仕事が忙しくなり過ぎて、癒しの空間に浸る余裕もなくなり、サックスの音楽教室もやめる事に。。。

仕事人間に戻ってしまいました。

17.究極の空間との出会い

究極の音楽鑑賞。

コンサートは、大きな会場で見るもので、大音量で聴けるので迫力は感じられるが、アーティストも大型モニターを介してしか見る事は出来ない。

ここは、客席の目の前にステージが広がり、演奏者の生の声が聞ける位の距離感で、一流ミュージシャンの演奏を体感できる。これほど贅沢な音楽鑑賞は無いと思っています。

それが、「Blue Note TOKYO」

BLUE NOTEは、JAZZの聖地

ステージが始まる前に、食事を楽しみ、お酒を飲みながら、一流ミュージシャンの生演奏を聴くことができ、ミュージシャンとお客さんの一体感も体験できます。

非日常の世界観が素敵で、この空間に居られるのが、本当に幸せだと感じました。

この空間が好きで、行けるなら何度でも行きたいのですが、高価で中々行くことは出来ません。

それ以前に、仕事が激務になってからは、行ける余裕が無くなりました。

自分の好きだった事は、ことごとく会社に潰されてしまいました。

そして、夢を描いてみた

18.夢を書き出してみる

自分と真剣に向き合って、実現可否は関係なく、何をしている時が一番幸せと感じるのか?

時間をあけて、書き出してみる。

書き出していくと、関連して、色々頭に浮かんでくる。

その中で、本当にやってみたいことを文章にしてみる。

恥ずかしがらなくていい、誰に見せるものでもないから。

そして、思い描いた文章を、普段生活して目にするところに、掲示してみる。

いつしか、直接的ではないかもしれないが、描いた夢への道の出発点に出会えるかもしれません。

 

19.描いた夢を書いてみた

自分の場合は、メモしたものを、ホワイトボードに書いてみました。

それを、自分の部屋に置いていました。

この時は、彼女もいなく独身だし、就活中だし、自分ひとりで店なんてもてる訳ないし、そもそも起業しようなんて考えてもなかったし、話ベタで、コミュ障だし、相談できる人もいないし、実現方法も分からないし…って感じでした。

 

20.ソフト開発以外の仕事探し

夢は夢でおいておいて、現実社会は、厳しいものです。

実家に戻ってきて、再就職はできたものも、人間関係、仕事に求められるものが、自分の実力では難しいと思い、さらにハードワークだったため、動機がしたりして、身の危険も感じたので、退職した経緯がありました。

そのため、ソフトウェア開発の仕事以外の仕事を探すようになりました。

しかし、再就職は、キャリアを求められる。

しかも、この時既に48歳。未経験者を雇ってくれる会社なんて、ありませんでした。

そもそも、地元は働き口が少な過ぎる。

そして、未知の分野の仕事に挑戦しようと決めました。

それが、「結婚相談所」

婚姻歴なし、彼女なしの48歳の男が、女性ばかりの職場なんて、はっきり言って無謀だと思ってはいたが、イベントの企画とかって書いてあったので、申し込んでみました。

そして、その時、面接してくれたのが、今の妻である、圭縁のママなんです。

夢への道の分岐点に出くわす

21.人生には分岐点がある

一番大きかったのは、40歳で父を亡くしたことかな?

やはり、父は偉大で、とりあえず何かあれば、父に相談できるという安心感がどこかにありました。でも、ほとんど相談できませんでしたが…

その父が亡くなって、自分は真の大人になった気がします。

行動や考え方、自分がやらなければという責任感がでてきました。

会社を辞める、マンションを売却するにあたっては、色んな手続きが発生します。

そのあたりは、在職中に、行政書士の勉強、ファイナンシャルプランナーの資格を取得していたので、それなりの知識があったので、良かったです。

22.妻について

就活中に、結婚相談所の募集は2回見ていました。一応どんな会社かHPを見て調べたりしていました。

1回目は、あまり興味がわかずスルーしました。その後、何社かに履歴書を送ったり面接にいったりしていました。

しかし、決まらず、また結婚相談所の募集が検索にヒットしました。そしてまた、HPを見たときに、従業員の写真が更新されていました。男性もいたし、支店長らしい人も変わっていました。

こういう業界の人だから、華やかな感じなんだろうな。自分の人生には、関わった事がない人だな。こういう人だったら、自分を変えてくれるんじゃないかな?

名前が圭子って、自分と似た名前だなあと、印象に残りました。

その支店長らしき人が、ママでした。 

23.入社するも即退職

面接に受かり、2016年1月に結婚相談所の会社に入社しました。

仕事は、電話帳を見ながら電話をかけてアポをとるところから始まりました。

自分でアポを取り、面談、契約をとり、はじめて報酬がもらえるというシステムで、いわゆる営業でした。

現実は厳しかったです。

まず、テレアポが取れない。喋りは苦手だし、上手くしゃべれないし…

面談へ行くまでが、大変。

面談に行くには、説明が必要なので、説明の疑似練習、いわゆる「ロープレ」をして、面談の準備もしてました。

室長には、ロープレの指導、面談への同行もさせてもらいました。

その経験の中で、彼女の語り方、言葉の力に魅了されてしまいました。

自分には無理だと判断し、半年で退社しました。

職場環境は、悪くはなかったのですが、ただ自分が仕事が出来なかっただけ。

退職後、自分が残したお客さん、見込み客の資料について、室長から連絡があったりしている中で、再就職の相談なんかもしたりしてました。

そして、室長も職場内でトラブルがあり、辞めるといいだし、そこから、会って話す機会が増えていきました。

室長は、また店を持ちたいという話はしていて、その時、実は自分もこんな夢があるんですよと、掲示していた夢の話をしました。

そこから、じゃ、一緒にやろうかと、突然ここから始まりました。

起業の決断

24.もう決断するしかない

就活をしていく中で、自分に関心をもってくれる人、会社がが無い。

自分はそんなに価値が無い人間なのか?歳だから?経験が無いから?判断基準ってなんなのか?そんなに自分は劣っているとは思えない。

じゃ、もう自分でやるしかない。

それが、起業の決断理由です。

 

25.道は開ける

未知の事に挑戦するには、不安や迷いはつきものです。それを払拭するには、調べる事から始めました。

真面目に調べると、逆に不安な事が増すばかり。ある意味、勢いでやらないと前には進めませんでした。

一度、これをやろうと決めれば、不思議と自然に道が開けていきました。

上手くいくときは、流れができます。

何かしら障害とか、停滞がある時は、流れが良くないので、止めるか、日を改めたりするか、内容により精査していきました。

目標に向かていく時は、大変ですが、一つ一つ進んでいくと、「希望と楽しみ」の方が増していきました。

26.道を歩き出せば景色が変わる

一歩踏み出すと、課題が見えてきます。

その課題をクリアーすると、次の課題が見えてきます。

歩きを止めなければ、このステップを繰り返していくだけで、見える景色も変わっていきます。

 

27.分からない事ばかり

実現するには、自分達だけでは出来ない事も多々あります。

その場合は、誰かに頼まなければなりません。

自分達の経験があったからこそ、出来る事も結構ありました。

形は作る事ができましたが、実際にお店を運用させてきた現在から振り返ると、反省する事ばかりです。

その当時は、知識も経験も無いので、内容を精査する事も出来ませんでしたし、アドバイスを受ける人脈も無かったので、仕方がありませんね。

 

 

障害が立ちはだかる

28.道を閉ざす障害

既に物件もおさえてしまっている中で、想定外の事が、目の前に立ちはだかりました。

健康上の問題なので、見過ごす事は出来ませんでした。

29.母が認知症に

認知症は、眼に見えないため判断するのが難しく、高齢からくる物忘れと認知症の違いを判別するには、脳の検査が一番です。

家族だけで話あっても解決はしないので、市役所や関連施設に早めに相談する事をお勧めします。

本人は、ボケてないという言い張るので、関連施設の協力は欠かせません。

早期に診断できれば、治療薬で進行を遅らせる事も出来るので、疑いがある場合は、まず市役所に相談して、関連施設を紹介してもらうのが、一番の近道です。

30.自分が手術する事に

以前より、頚椎ヘルニアの持病がある事は認識していたが、自覚症状が頚椎が影響しているか判断が出来ませんでした。

指の痺れ、ワイシャツの上のボタンが留められない、もっとも不安になったのが、左手が河童みたいな、水かきのある手のように甲が薄っぺらくなってしまったこと。

現在の立場から言えるのは、「いいお医者さん」との出会いが運命を変えるという事を身をもって体験してきました。

専門医の先生は、一般の患者は調べる事は無理なので、近くの病院に勤務している医師が、知見、人脈があるお医者さんであれば、名医を紹介してくれるかもしれません。私達は、運良く経験豊富な名医を紹介頂いて、多くの手術を受け、今があります。

31.介護認定ってとても重要

母の場合は、アルツハイマー型認知症でした。

介護認定が無いと、公的サービスを受ける事ができません。

介護認定を受けるには、申請が必要になります。

市役所に必要書類(医者の診断書含む)を添付して申請。その後、市役所の担当の方との訪問面談があります。母と家族と市の担当者との三者面談。その後、市の担当者と家族の二者面談を行います。

三者面談は、本人を誤魔化せますが、二者面談は、かなり苦労しました。

本人が居ないなかで、二者で話していると、母が何やってるって、来てしまうので、家を離れ場所を変えてやってました。

 

 

32.自分は手術

お店は2017年3月オープンしましたが、手術は2016年10月に行いました。

術式は、「頚椎前方固定術」とう方法で行いました。頚椎は首の後ろ側にありますが、この術式の場合、喉の下側にメスを入れて食道をどかしながら頚椎の手術を行います。

後に、YOSIKIも同じ術式で手術を受けていました。多分自分が手術を受けたから関心があったんですね。

術後は、一週間ほどで退院できましたが、首を固定するカラーを付けた状態だったので、首を上下左右に動かせませんでした。

一番悲しかったのが、全身麻酔から目が覚めて、いきなり母親に怒られたこと。

本人、認知症の症状が酷く、状況が分からなくなっていたんだと思いますが…病室には居ると迷惑なので、姉が家に送っていってくれました。

33.介護認定を受けられました

退院後、要介護1の認定を受けました。

身体は丈夫だったので、要介護1になりました。

介護認定を受けると、各種介護サービスを受かられるようになります。

ケアマネージャーと相談しながら、介護計画を作ってもらい、ヘルパーさんに食事のお手伝いを週2回来てもらう事に。

私達は、食料品、日常品の買い出しを。

他に宅配のお弁当を契約して、食事ができる環境を整えていきました。

出来る事はやって、私は実家を離れ、妻(ママ)と一緒に暮らすために、賃貸のアパートに引越しました。

賛否はあると思いますが、母との同居は、母が拒んだので仕方がありません。

正直、店が成功するか分からないのに、家賃の掛かるアパートに引越すというのは、金銭的リスクがあり、悩みましたが決断しました。

34.彼女に感謝

彼女は、今の妻で、ママです。

首のカラーが取れたのは、術後2ヶ月後でした。

その間、自分は首を動かせず、車の運転も出来ないので、家に引きこもりがちでしたが、そんな自分を外に連れ出してくれました。

家まで送迎してくれる毎日が続きました。

感謝の気持ちで一杯です。

その恩を返すべく、今度は自分がママをサポートする番と思い、これまで頑張ってきました。

35.いよいよ開業へ

引越し、共同生活、首のリハビリをしながら、お店の準備を行うという、結構ハードなスケジュールで物事を進めてきました。

そして、開業へ向かいました。

 

ほっこり空間の具現化

36.思い描いた夢の空間

食事とお酒と音楽と癒しの空間を「ほっこり空間」として、屋号に付加しました。

お食事を楽しんだ後、お酒を飲みながら音楽を楽しむ。

そんな空間が気軽に体感できたらいいなという想いを込めて、この店をプロヂュースしました。

 

 

37.お店のコンセプト

お店のキャッチコピー的な文章は、

「心地よい音楽の流れる店内で、お酒と美味しい料理をつまに「日頃の疲れを癒して欲しい」という想いで作り出した。「ほっこり空間」です。」

でした。

これをショップカード、お店のプロフィールに載せていました。

38.コンセプトの具現化

心地よい音楽の提供には、自前のステレオシステムを設置。

お酒は、お客さんの好みが分からなかったので、一通りご用意しました。

料理については、ママに全てを任せていました。ナポリタンだけは、マスターが作るので、「唯一マスターが作るナポリタン」とうたってました。

日頃の疲れを癒して欲しいについては、内装の雰囲気、電球色の照明、間接照明で演出するように、設備を整えました。

39.照明の演出で雰囲気を変えてみた

オープンの17時からは、居酒屋営業で通常の照明で営業していました。

21:30以降は、BARタイムとして、お酒をメインに考えていたので、音楽をじっくり堪能してもらうために、照明を落として、間接照明で癒しの空間を演出していました。

これは、マスターの想いが強かった演出でしたが、思ったようにはいきませんでした。

21時30分以降は、BARタイムでドリンクだけというのは、無理がありました。

お客さんは、そこまで意識する事なくご来店頂いていたので、21:30以降も食事はしたいし、おしゃべりしたいし、盛り上がっている中で照明を落とすというのを躊躇して、そのまま営業したりもしていました。

また、照明を落としてしまうと、暗すぎてメニューが見えないなどと、お客さんには言われてしまうので、照明設計がダメでしたね。居抜きだったので、天井の照明までは整備できませんでしたので、中途半端になってしまいました。

お店を始めてみたが

40.やっぱ若い時とは違う

若くて独身で自分の事だけを考えていれば良かった時代と比べると、お互い歳をとり生きてきた環境も全く異なり、片や独身、片や家族持ちの二人が、一緒になって共同生活。

お互い、自分達の家族もあり、自分には年老いた母がいて、妻には、成人の三人の子供たちがいて、孫も生まれてという、相反する環境。

今まで培ってきた仕事とは、全く違う仕事、しかも起業という不安定な仕事にチャレンジしながらの生活。

起業にあたっては、経営の知識、経験も無く、当時50代になろうとしている中で、これだけの事を抱えながらというのは、精神的、体力的、金銭的な事で、かなりの負荷が掛かってしまった事は、間違いないですね。

 

41.これまでを振り返って

歩みを始めたら、進むしかありません。

しかし、大きな波が押し寄せて、その波にのまれてしまっていって、自分達はどこにいるんだろうって感じですかね。

波にのまれたとき、必死に立ち向かい、あらゆるものを受け止めて、自分達はもがき続けるしかなかった。

そんな時、自分達をコントロールできる術を持ち合わせていなかった。

今思うと、自分達の行動が自分軸ではなく、他人軸で行動していたという事なんだと、実感している。

自分軸であれば、自分自身をコントロールする事は可能。

しかし、他人軸では、相手の行動に振り回されてしまうので、自分では、コントロールが効かなくなる。

そんな、状況が続いてきたんだな。

42.時と共に

お店は、夜の営業時間が22:00迄になり、その代わりに昼の営業を始め。

わんこ(オセロ)を引き取り、わんこ入店OKの店になり、オセロ店長が誕生。

珈琲をおすことで、喫茶店の印象が強くなり、お酒を飲む人が減ってしまった。

みんなお客さんは、お喋りするのが好きで、逆に音楽が邪魔に…

私生活では、ママは若かりし頃からの長年の無理がたたって、体調を崩し、入院、手術(手首、眼、腎臓)を何度か経験し、毎月通院。

自分も、腎移植のドナーとなり片腎に。大腸ポリープ切除、突発性難聴がきっかけで、内耳に良性腫瘍がある事が発覚。経過観察から、手術を要することになりそう。

この7年間で引越も3回。それも周りの影響が原因で。

43.そして今

昼の営業から、夜の営業にシフトし、喫茶店の印象を排除しつつあります。

認知症だった母は、飼い猫に引掻かれたのが原因で、持病の影響もあり一カ月の入院を経て、施設に入居。その施設で転倒し頭を打ち、持病の影響で急死。

実家の飼い猫の世話、片づけ、そして引っ越し、犬と猫との共同生活が始まり、生活環境が激変。

そんな私生活が、さらに私達のパワーが私生活に取られてしまっての、今日。

そして、お店も新たなコンセプトを見つけ出して、盛り返しを図るべく、現在模索中。

多くの人が求めている事を、私達は、見つけ出さなければなりません。

「自分達がしたい」ことから「人々が求めているもの」で自分達に出来る事に、変わらなければいけないと考えています。

自分達が変わるには、周りの力も必要になってきます。

今度は、周囲に気をくばりながらも、自分軸で物事を進めていきたいと、考えています。

こんな自分の事に、最後まで、お付き合い頂きありがとうございました。

また、何かアイディア、コラボ企画などあれば、この投稿にコメントか、メールにご意見を頂ければ幸いです。